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2011年12月の記事

2011年12月 3日

BS日テレ「北海道すたいる」で小樽ロングクリスマス

今日のお昼の放送を録画して見ました。
彩やのトンボ玉、ルタオ、オーセントと、知らないところばかり。(^^;)


運河プラザのメッセージツリー。フロアーもぴかぴか。
過去のメッセージカード、今年はこっち側の壁に移ったんですね。

初雪前の収録だったのか、雪景色がなくてちょっと残念。

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2011年12月 5日

石狩・後志に暴風雪のニュース

今朝のNHK全国ニュースで、小樽の雪の様子が映っていました。
お昼のNHK札幌放送局からのニュースは、「石狩・後志など暴風雪に警戒を」と伝えていました。

小樽はきっと大変、と思っていたら、先ほど、
しろぱんださんのブログに凄い画像が載っていました!

 ぱんだの村 「問題:この物体は何か?」

 これはもう、貴重な記録写真です!

ところで... 
今ごろ、ここにあかりが灯ってるのか気になります。
今夜はたぶん無理ですね。

ン? ちがったかな。(^_^;)

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2011年12月12日

インターネットの彼方に


サイトから消えてしまった遠い昔のホームページが、インターネットの彼方に今も保存されていました。

 小樽市ホームページのトップページ(1999年2月22日に保存されたページ)

 第1回小樽雪あかりの路(1999年11月16日に保存された「小樽マニア大集合」のページ)

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2011年12月29日

遠い日の三陸の記憶

宮古、釜石、大船渡、陸前高田、気仙沼...
今年三月のあの日以来、毎日のように伝えられる東北の町の名前は、
私の遠い日の記憶を呼び戻すものでした。

 
もう遠い昔、私が二十代の頃に、十和田湖までサイクリングで往復しました。

その前の年に房総半島を一周して自信がついて、今度は、高校の修学旅行で通った発荷峠からもう一度十和田湖を見てみたい。そして、奥入瀬の遊歩道を自転車を担いで歩いてみたい、という思いでした。

一日に200kmぐらい走って、予定どおり4日目に十和田湖に着きました。
国民宿舎「十和田カルデラ」に2泊して、自転車で遊覧船に乗せてもらったり、
湖のまわりを走ったり奥入瀬を歩いたりして、楽しく過ごしました。

往路は国道4号線で内陸を走ったので、帰りは一日の距離も余裕をみて、三陸の海沿いに走る計画でした。
職場の同僚に岩手県下閉伊郡山田町の出身の人がいて、その人の実家で一泊とめていただけることになっていました。

ところが、帰りの2日目は大雨で、八戸から久慈まで走るのがやっとでした。
3日目は晴れて、山田町に着いたのはお昼ごろでした。ここで1泊すると予定より1日オーバーしてしまいます。

仕事の休暇を伸ばすわけにもいかなくて、残念でしたが、同僚の実家のご厚意を遠慮して、その日は夜通し走って帰路を急ぐことにしました。

釜石を通過したのが午後3時ごろだったと思います。大船渡が夜10時。そして、
陸前高田駅前で休憩して時計を見たら、ちょうど深夜0時でした。

午前3時ごろ気仙沼を通って... それから先は記憶が薄れてしまいましたが、
どこかで朝食をとって、少し仮眠して、往路で泊まったいわきの民宿にたどり着いて、その翌日、無事帰宅しました。

 
若かったな、無茶なことをしたな、と思います。
あの時、もっとゆっくりと楽しみながら三陸の町を走ればよかったなと思います。

山田町出身の職場の同僚は、私より二つか三つ年上の方でした。
その後、私は職場の異動があり、その方が退職されて故郷に戻ったと知ったのは、
だいぶ後になってからのことでした。

雨中に走った三陸の町、深夜に見上げた「陸前高田駅」の文字、夏休みに一人で
サイクリングで岩手県を一周すると言ってた地元の高校生...。
忘れかけていた遠い日の三陸の町と、遠い日の自分を思い出した一年でした。

     ☆

当時の職場の情報紙(会社で言えば「社内報」のようなもの)に、私の写真と
文が載りました。スキャナで撮ってここに載せたかったのですが、見つかりません。
(この記事を書くのが延び延びになってしまった言い訳です。)

来年、もう一度本気で探してみます。

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壊れてしまった記憶のカケラ


1999年2月、初めて小樽を訪ねた時の
懐かしい、かけがえのない記憶につながるグラスが
今年3月の地震で壊れてしまいました。

震災で自らの命を失った人たち、
生き延びても肉親や友人を失い、家を失い、職を失い、
故郷を追われ、未来への希望を奪われた人たちのことを思えば、
小さなグラスひとつですが、私にとっては深いショックでした。

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花は咲く 春がくれば 地の果て続くかぎり


3月の地震の後、こちらでも予定されていたイベントが中止になりました。
今年で41回目になるはずの、さくら祭りの歩行者天国やパレードもありませんでした。

テレビや新聞は毎日被災地のニュースを伝え、お米もパンもスーパーから消えて、
計画停電の日程に気をもみながら過ごした日々でしたが、それでも、
桜はいつものように見事に咲きました。

そんな頃に口をついて出たのが、あの
♪ 花は咲く 春が来れば 地の果て続くかぎり... のフレーズでした。
ドラマ『日本沈没』の主題歌です。
(柴咲コウが出演した映画ではなくて、昭和49年に放送されたテレビドラマです。)


『日本沈没』テレビ版のオープニングが YouTube にありました。
http://www.youtube.com/watch?v=OeJcsUfjTHE


原作の小松左京さんが亡くなられたのは、地震から4か月が過ぎた今年7月のことでした。

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2011年12月30日

言い訳です。

年の瀬の忙しい時に、ひとの体調の話を聞かされるのは迷惑なことと思いますが、 今年はあまりブログの更新ができなかった言い訳を書きます。 時間がとれた時にでも、ざっと読み捨ててください。 今年5月13日、突然、右足の足首から先が動かなくなってしまいました。   整形外科でレントゲンとMRIを撮ったら、椎間板ヘルニアが神経を圧迫しているとの診断でした。 痛みやその他の症状からは、緊急手術の必要はないけれど、長くかかるということでした。 「スリッパが脱げちゃうでしょ」と、医師は笑いながら言ってましたが、足首から先が動かせなくなって、 歩くのが大変でした。 つま先が上がらないので、右足は地面に平行にすり足のように引きずって歩くしかありません。 そうすると、ちょっとした地面のでこぼこや段差でつまずくので、膝頭から足を持ち上げるように意識して、 足の裏全体で着地するしかありませんでした。 台の上に横になって腰椎を牽引する保存療法で治療ということになって、それから毎日ずっと(日曜以外) 病院に通いました。 「長くなりますよ」と最初に言われましたが、どのくらいかかるのか聞いて、もし、半年や1年と 言われたらと思うと、聞いてみる勇気がありませんでした。 仕事に出た日は夕方職場からタクシーで、オフの日は自宅から通いました。 治療の帰りも、近くの私鉄の駅までの5、6分の距離を歩くのがつらくて、初めのうちは車を使っていました。 行き帰りとも電車で通うようになったのは5月末のことでした。 最初のうちは治療の効果が全然なくて、このまま続けて治るのだろうかと不安な日々でした。 外を歩いていると、それまでは別に気にとめなかったことですが、杖をついて歩いてる人の様子が気になるようになりました。 もしこのまま治らなくて自分も杖を使うようになったら、あんなのじゃなくて、違う形のがいいな、なんて思うこともありました。 それより、もし左足も動かなくなったらという恐怖感が続きました。 1か月過ぎた6月17日ごろから、ようやく足首から先が上がるようになりました。 まだ指が思うように動かない状態でしたが、やっと動いたという喜びがありました。 ところが、それまで足の裏全体で着地する歩き方のせいで、捻挫のような痛みが続いていました。 それも毎日湿布を続けて、段々よくなっていきました。 牽引の治療は、日曜日とお盆を除いた毎日、8月末までの約3か月半続きました。 3月の地震の後のいつもと違う春、新緑の季節を楽しめるはずの頃の体の不調、その後の猛暑。 気が滅入る日々がずっと続きましたが、ネットでいろいろなサイトを眺めたり、twitter でつぶやくことで、 辛うじて気持ちのバランスを保つことができたように思います。  その頃の私のつぶやきです。
40日ぶりぐらいでやっと散髪に行って、いま西友の喫茶コーナー、サントス。BGMはMISIA:Everything。懐かしく、しみじみ。 (6月26日 17:20) 夕方、仕事が終わってタクシーを飛ばして大事な用事を済ませて、帰りは駅まで歩いて電車で帰宅。目に入った9人のうち4人がスマートフォンらしかった。自分は... まだいいかな。4人とも自分よりずっと若そうだったから www (7月5日 20:17) いま五香の喫茶店コロラド。これから常盤平駅前まで歩いて、喫茶店のハシゴ... は、まだ無理かな。暑いし。(7月14日 16:44) パラパラ雨が降ってきて、蒸し暑くなった。でも、25分歩けたぜ!(^o^)v 今、西友のサントス。熱いコーヒーが旨いっ! (7月18日 17:39) 正月のおみくじは大吉だったのに、今年は身の回りのものが次々と壊れた。冷蔵庫もエアコンも電話機も温度計も私の体も。幸い、全部解決。 :-) (7月28日 18:49)
3月の地震のあとも、このブログは毎日更新していました。 不安な毎日でしたが、こんな時だからこそ続けたいという思いもあって、今年2月の小樽のことを振り返りながら 書き続けました。 それも一段落して、3月27日にスナップ集を載せ、3月28日に「やがて、花園橋の春」を書きました。 実は、2月に小樽の花園橋であの写真を撮った時に、もしかしたら5月にまたここに来て、 「花園橋の春」のタイトルで書けるかなとひそかに考えていました。 地震のあとで旅行をするのは難しいことでしたので、地震のことを3つ書こうと、記事の順番とタイトルまで 決めていました。十和田湖へのサイクリングは、私が自慢できる数少ないことですので、 今までも書かないでとっておいたのですが、地震のあった今年に書くことにしました。 でも、サイクリングのルートを地図に落とすのが難しかったり、当時の私の文と写真を探すのに手間取って、 ひとつも書けないうちに、体調を崩してしまいました。 一昨年の小樽の龍宮神社、昨年の水天宮に続いて、今年は7月14日に住吉神社を訪ねて小樽三大祭り完結 の計画でしたが、その頃はまだ体調が完全に戻らず、あきらめました。 それで、7月末の潮まつりに行こうと思ったのですが、なかなか決心がつかず、直前になって ホテルの予約をとろうとした時にはもう無理でした。 (いつものフロアの、運河側の部屋の3泊がダメでした。下の階のシングルか、山側の和室なら と言っていただいたのですが、こんなことがあった後ですから、今までと同じように過ごしたい という特別な思いがありました。) 足の具合は無事回復しましたが、その後も、スーパーの景品で大きなペットボトルの水をもらったり、 2kgのお米を買って帰るのが重く感じることが続いていました。 心理的な後遺症なのか、それとも体力が落ちたのかな... 昔は自転車で東北まで行って、 途中で一昼夜走り続けて帰って来る体力があったのに...。 重い旅行カバンをかついで 雪の道を歩くのはまだ無理かな... と思ったこともありました。     ☆ ずっと書きたいと思っていた3つの記事を、昨日やっと書くことができました。 今年はつらい年になってしまいましたが、それも、もうあと1日です。 来年はいい年になるといいなと思っています。

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2011年12月31日

カレンダーフェアへ

27日に銀座・伊東屋のカレンダーフェアに行ってきました。
もう20年ぐらい、毎年通っています。


9階のギャラリー会場で数点選んで買って来ました。
カレンダーフェアは9月末からやってるので、あまり混まないうちに行けば
ゆっくり落ち着いて選べます。それで、来年はもっと早めに、
と毎年思うのですが、結局今年も押し詰まってからになってしまいました。(^^;)


同じフロアのティーラウンジのカウンターで紅茶を飲みながら、
いつもと同じペースで年を越せるのは幸せなことなんだ、と思いました。
「いつもありがとうございます」と言ってもらったのも、いつもと同じでした。


年に一回カレンダーフェアの時にやって来て、カウンターでアールグレイを飲んで、
北欧紅茶を買って帰る客は、そんなに多くないのかもしれません。(^o^)

      ☆

そして...。

帰宅してから、「あ、9階だったんだ!」と気がつきました。

1階のエレベータで並ぶのがもどかしくて、毎年、9階まで階段を登っていますが、
今年も何の意識もなく階段を登ったのでした。
帰りは手提げ袋がいくつかあって重かったはずですが、全然気にならず帰宅しました。


 それに気が付いた時、今年一番の嬉しさでした。 :-)

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