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2009年12月 9日の記事

2009年12月 9日

赤く咲いても冬の花

今年も職場の構内にサザンカが咲いています。


今月に入ってから雨の日もあったので、空気が乾燥して北風が吹きすさぶ
いつもの関東の冬とは少し様子が違っています。
それでも風は冷たくて昼間の気温が11,2℃の予報ですので、当地としては
今日はかなり寒い日になりました。
通勤はまだコートなしです。
今から少しでも体を慣らしておけば、雪あかりの時に楽ですから。
(プラス10℃ぐらいでは体慣らしにならないかもしれませんが。(^^;)

     ☆

初雪の時にみつけた小樽の K さんのブログに寒椿が載っていました。
暖かいっていいな~♪(Good night, Sleep tight)

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塩谷の講演会資料をいただきました

今年9月、小樽市立塩谷中学校の校長先生にお会いした時に、
近く伊藤整に関する講演会が開催されますから、あとで資料を送りましょう、と
言ってくださいました。

私が千葉に戻って間もなく、講演会の資料が届きました。



校長先生のお手紙とレジュメによると、平成21年度塩谷地区『子どものすこやか
な成長を願う会』の講演会で、講師は竹田保弘さん。演題は「伊藤整とその周辺
の人々」でした。
当日は主に伊藤整の父母についてのお話があり、貴重な資料も展示されたそうです。

いただいた資料は、伊藤整・小林多喜二・石川啄木の三人とそれぞれの父母の
年譜が対比して読める素晴らしいものでした。

 
年譜を読み比べると、こんなことがわかりました。

幌内鉄道手宮ー札幌間が開通したのが明治10年。*1 *2 それから十年目の明治19年、
北海道庁が設置された年に石川啄木が生まれ、小林多喜二の両親が結婚。
その二年後の明治21年には伊藤整の父伊藤昌整が満16歳で小学校尋常科教員の
資格をとっています。

小樽運河が完成した翌年の大正13年に、小林多喜二は小樽高商を卒業し拓銀に就職。
約半年後に、「運命的出会い」とノーマ・フィールドさんが書いた田口瀧子(タキ)と
出会いました。田口タキは2年後の大正15年に小樽を去ります。

伊藤整の詩集『雪明りの路』が刊行されたのは、その大正15年12月のことでした。


資料の伊藤整のらんを見ると、
伊藤整の父伊藤昌整は、明治34年の白神尋常小学校代用教員を経て、明治39年の
ところに「伍助沢簡易教育所」の記述がありました。これが塩谷小学校伍助沢分教場の
前身でしょうか。

それより前には、伊藤昌整が北海道の地を踏む前の明治24年12月、「教員をやめ
千葉県国府台の陸軍教導団へ」とありました。

     ☆

国府台(こうのだい)は現在の市川市で、私のところの隣りの市です。国立国府台病院が
あって、私が小学校一年の夏、バスに乗って診察を受けに行った記憶があります。
伊藤整の父親の足跡が近くにあったことを今回の年譜で初めて知りました。
その後ネットで調べたら、国立国府台病院の場所が陸軍教導団があった場所なのでした。

     ☆

レジュメのご経歴を読むと、講師の竹田保弘さんは、忍路中・末広中・長橋中で
教員生活をされたとのことですので、竹田先生のお教えを受けた方が小樽市内に
たくさんいらっしゃることと思います。


先週土曜日に再び、竹田先生がまとめられた大変貴重な資料をいただきました。
もう少し読み進めてから書いてみたいと思います。

*1 講演会資料の明治10年のらんに「11.28幌内鉄道手宮ー札幌間開始」と書かれています。

*2 その後、講演会を主催された塩谷地区『子どものすこやかな成長を願う会』事務局から、誤植です、と

  コメントでご連絡をいただきました。

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