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2011-02-21 (月曜日)

塩谷日記 雪あかりの路 2011


塩谷の海を見下ろすゴロダの丘。
伊藤整文学碑広場と冬木立の中のあかりは、眼を見張り息をのみ、
立ち尽くして涙がにじむほど美しい光景でした。

雪あかりの路に毎年通って13年になりますが、
こんなに美しいあかりを見るのは初めてでした。

塩谷の皆さんに心からのお礼の気持ちをこめて、2月6日・7日の塩谷日記です。

 
2月6日、午後1時前にJR小樽駅に着いて、バスで塩谷に向かいました。


塩谷海岸バス停で撮った最初の画像です。海も、少し融けた手前の雪も
キラキラ光っていました。向こうに見える「北ホテル」(小樽迎浜館)がこの日の宿です。



去年11月、ここでお昼を食べた時に、塩谷中に電話して雪あかりの日程を教えていただいて、
休みがとれるか確認して電話しますからと、予約をお願いしておきました。

部屋に荷物を置いて、レストランで軽く食べて、歩いてゴロダの丘に向かいました。

 

ゴロダの丘の会場に着くと点火が始まっていました。

文学碑の前のあかりは去年よりもずっと多くなっていました。
去年ここでお会いした方々の姿を見つけて、少し話しました。
文学碑のあかりは、船と岩と魚のうろこを表したもので、塩谷にふさわしく、
漁の網も飾ったと教えていただきました。

伊藤整作詞の塩谷小学校校歌を印刷したシートが、入場記念品として
一枚一枚きれいにラミネートされて文学碑の前に置かれていました。

前日の開会式では、地元の子どもたちがここで校歌を歌い、伊藤整の詩の
朗読があるとお聞きしたのですが、早くから決めていた日程が変更できず残念でした。



「周辺を散策できるスケールの大きなコースも作りました」と、塩谷のかもめさんが
コメントで書いてくださったコースも楽しみでした。
あかりがともり始めた散策コースに入り、あたりが暗くなるにつれてだんだん変わっていく
あかりの光景を楽しむことにしました。

 


 
「雪あかりの路」の名前の元になった伊藤整の詩集『雪明りの路』。
その伊藤整が若い詩人の時代を送ったふるさと塩谷。
塩谷は、雪あかりの路の原点と言えると思います。

文学碑のあかりは造形に凝って奇をてらったものではなくて、
この塩谷だからこそというものでした。
散策コースは、林の中にただ点々と素朴なあかりを配置したのではなくて、
よく考えられたコースにひとつひとつ丁寧に作り上げられたあかりが
ともっていたのでした。

2日間のあかりに塩谷の皆さんの誇りと心意気がこめられていて、それが
旅行者の私に大きな感動を与えてくれたのだと思います。
 

          ☆
 

散策コースを歩いていた時、私を探し当てて下さった方がいました。
地元の竹田保弘さんでした。

塩谷中の先代の杉山校長先生を通じたご縁で、竹田さんには、一昨年
『ゴロダの丘-文学碑に関する資料集-』を送っていだだきましたが、直接お会いするのは
この時が初めてでした。

そして、なんと、竹田さんが手書きでまとめられた
『旧小樽市中学校創立期の人びととその周辺』をいただきました。


小樽市中学校の大正14年の『当直通知簿』の写しも収録されています。
そこに伊藤整の名前をみつけて発表されたのが竹田さんです。

文学碑広場でたき火にあたりながら、竹田さんからお話をお聞きしました。

私からは、若き日の伊藤整と北見恂吉がこの丘に寝転んで文学を語り合ったという話を、
以前、最上町の喫茶店で聞いたことなどをお話しました。

          ☆

その後、文学碑広場のあずまやで、今回も地元の皆さんと楽しい時間を過ごすことができました。
今日の記念にと、文学碑のあかりのデザインのイラストもいただきました。

翌日の午前中に、皆さんが後片付けに集まるということを耳にして、その時にまた来てみようと思いながら、いったん迎浜館に戻りました。

 
夕食は、去年教えていただいた輝楽飯店でした。
迎浜館の上の国道の交差点から輝楽飯店までは、1kmほどです。
ホテルから歩くのは初めてでしたが、無事往復できました。


          ☆

翌2月7日、


道新の朝刊題字下の天気予報には、
「冬型の気圧配置に戻る。日本海側は雪でふぶく所も。」と書いてありました。
窓の外の塩谷の海に雪が降り続いています。
 
 
 
もう一度ゴロダの丘に登って、その後、塩谷中学校を訪ねました。


塩谷中から小樽環状線を歩いて戻って、ゴロダの丘歩道橋のあたりに来たころから吹雪になって、
国道の交差点から海岸のホテルに下りる坂道は、前も後ろも見えないくらいでした。
道新の天気予報が大当たりでした。
 
 

ホテルに戻って、塩谷海岸バス停から次の次のバスに乗ることにして、
ゆっくりコーヒーを飲みながら、twitter でちょっとつぶやきました。


すると、数分後に、
「@sfujino お疲れ様です。聞こえるのが天国の音楽じゃなくて良かったですね!」と
絶妙な返信が返ってきました。
 

          ☆
 



一昨年の小学校の会場から数えて3回目の塩谷雪あかりの路でした。
今年の美しい光景は長く私の記憶に残ることと思います。

塩谷の皆さん、今年もありがとうございました。
またいつか、機会をつくってお伺いします。

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2009-12-30 (水曜日)

やがて、ここにあかりが


12月20日午後、私が小樽に着いた日の様子です。

少しずつ小出しにと思っていたら、帰省した hkotsw さん
先を越されてしまいました。:-)

地元の方々の思い出につながる玉光堂。
もしかしたら、来年2月、ここにキャンドルのあかりがともるかもしれません。
発表を待ちたいと思います。

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2009-12-17 (木曜日)

語らずとも 心に小樽

『ゴロダの丘-文学碑に関する資料集-』の竹田保弘先生に資料のお礼の
手紙を差し上げたら、先生から直接ご返信をいただきました。

これから郵便局に行って差し出します、と書かれていて、封筒には
塩谷郵便局の風景印がありました。風景印には伊藤整文学碑が描かれて
いて、ぶどうの絵や塩谷の浜や、塩谷丸山でしょうか、文学碑を囲むように
載っていました。

竹田先生がまとめられた小樽雪あかりの路のイベントの資料もありました。
願う会の講演会レジュメにも『ゴロダの丘』の資料にも引用されていた、あの
「人生は深き縁の不思議な出会いだ」の言葉とともに、「2月の雪あかりの路
塩谷会場での杉山校長との出会いが... 不思議なご縁だったのですね。」と
書いてくださいました。

先日 google の検索でみつけた asahi.com マイタウンの実際の記事の
コピーもいただきました。
朝日新聞(道内版)は11月13日付、道新(小樽後志版)は11月23日付でした。

たくさんの資料の中に、道新の「ざっくばらん」に載った伊藤整の二男、礼さん
の記事がありました。

父伊藤整について語ったその記事の見出しは、「語らずとも 心に小樽」でした。

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2009-12-16 (水曜日)

竹田保弘先生の『ゴロダの丘-文学碑に関する資料集-』

講演会資料に続いて、12月5日に、塩谷中の校長先生から
『ゴロダの丘-文学碑に関する資料集-』が届きました。
講演会の講師をされた塩谷の竹田保弘先生が今年11月15日に
発行されたものでした。



資料集はA3版30ページ以上にわたる膨大なもので、全部読みきれないままでは
失礼と思いましたが、とりあえずお礼を兼ねて少し書いてみます。


資料の中には、伊藤整自身が文学碑のために書いた最初の原稿や、碑の
デザインの希望を伝えた手紙も収録されていました。また、文学碑完成の
時の様子や、現在の場所に移設された時の新聞記事も読むことができました。

今、竹田先生がお住まいの場所は、かつて伊藤整の父昌整が自分たち
家族が住む計画で買い求めた土地だったことも書かれていて、
『「人生は深き縁の不思議な出合いだ」(坂村真民)』と書き添えられていました。

     ☆

資料が届いた日に、google で「塩谷 竹田保弘さん」と検索したら、
2つみつかりました。(その後、現在はこのブログも出てきます。)

そのうちのひとつは、小樽市のホームページでした。
  おたる文学散歩 第1話 伍助沢分教場跡(伊藤整)

今年9月8日、道道956号小樽環状線を歩いて塩谷中学校を訪ねた途中で
みつけた、あの「塩谷小学校伍助沢分教場跡」の標柱を再建されたのが、
竹田先生でした。

検索でヒットしたもうひとつの記事は、asahi.com マイタイウン北海道の
『丘の碑、作家と友の記憶』でした。

今は asahi.com のサイトにその記事はありませんが、google のキャッシュを
開いたら、まさに、この資料集の発行を伝える記事でした。
そして、発行日の今年11月15日は、伊藤整没後40年の命日なのでした。

     ☆

竹田先生に資料集のお礼と少し自己紹介の手紙をお送りしたところ、
一昨日、ひと足早いクリスマスプレゼントのような嬉しいお返事を
いただきました。竹田先生、どうもありがとうございました。

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2009-12-09 (水曜日)

塩谷の講演会資料をいただきました

今年9月、小樽市立塩谷中学校の校長先生にお会いした時に、
近く伊藤整に関する講演会が開催されますから、あとで資料を送りましょう、と
言ってくださいました。

私が千葉に戻って間もなく、講演会の資料が届きました。



校長先生のお手紙とレジュメによると、平成21年度塩谷地区『子どものすこやか
な成長を願う会』の講演会で、講師は竹田保弘さん。演題は「伊藤整とその周辺
の人々」でした。
当日は主に伊藤整の父母についてのお話があり、貴重な資料も展示されたそうです。

いただいた資料は、伊藤整・小林多喜二・石川啄木の三人とそれぞれの父母の
年譜が対比して読める素晴らしいものでした。

 
年譜を読み比べると、こんなことがわかりました。

幌内鉄道手宮ー札幌間が開通したのが明治10年。*1 *2 それから十年目の明治19年、
北海道庁が設置された年に石川啄木が生まれ、小林多喜二の両親が結婚。
その二年後の明治21年には伊藤整の父伊藤昌整が満16歳で小学校尋常科教員の
資格をとっています。

小樽運河が完成した翌年の大正13年に、小林多喜二は小樽高商を卒業し拓銀に就職。
約半年後に、「運命的出会い」とノーマ・フィールドさんが書いた田口瀧子(タキ)と
出会いました。田口タキは2年後の大正15年に小樽を去ります。

伊藤整の詩集『雪明りの路』が刊行されたのは、その大正15年12月のことでした。


資料の伊藤整のらんを見ると、
伊藤整の父伊藤昌整は、明治34年の白神尋常小学校代用教員を経て、明治39年の
ところに「伍助沢簡易教育所」の記述がありました。これが塩谷小学校伍助沢分教場の
前身でしょうか。

それより前には、伊藤昌整が北海道の地を踏む前の明治24年12月、「教員をやめ
千葉県国府台の陸軍教導団へ」とありました。

     ☆

国府台(こうのだい)は現在の市川市で、私のところの隣りの市です。国立国府台病院が
あって、私が小学校一年の夏、バスに乗って診察を受けに行った記憶があります。
伊藤整の父親の足跡が近くにあったことを今回の年譜で初めて知りました。
その後ネットで調べたら、国立国府台病院の場所が陸軍教導団があった場所なのでした。

     ☆

レジュメのご経歴を読むと、講師の竹田保弘さんは、忍路中・末広中・長橋中で
教員生活をされたとのことですので、竹田先生のお教えを受けた方が小樽市内に
たくさんいらっしゃることと思います。


先週土曜日に再び、竹田先生がまとめられた大変貴重な資料をいただきました。
もう少し読み進めてから書いてみたいと思います。

*1 講演会資料の明治10年のらんに「11.28幌内鉄道手宮ー札幌間開始」と書かれています。

*2 その後、講演会を主催された塩谷地区『子どものすこやかな成長を願う会』事務局から、誤植です、と
  コメントでご連絡をいただきました。

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